パンクロックの可動式祭典WARPED TOURの創始者、ケヴィン・ライマンに聞いた

久方ぶりに日本で開催されたWARPED TOUR。その創始者であり、プロデューサーであるケヴィン・ライマンがそれに合わせて来日した。パンクロック隆盛に大貢献し、ひとつのストリートカルチャー、時代までにした彼にいろいろ語ってもらった。



――1995年にWARPED TOURを立ち上げたわけですけど、その前はなにをなさってたんですか?
「プロモーターの代理人をしてたんだ。ロサンゼルスのプロモーターのためにライヴをブッキングしたりとか。Goldenvoiceという会社で」

――とても名を知られた会社ですね。
「今じゃCoachella Valley Music And Arts Festivalなどをやってるところだけど、当時はパンクロック系プロモーターでね。一時期年間320公演ブッキングしてたよ。そんなわけでパンクロック界から今のキャリアが始まったんだ。CIRCLE JERKS、BAD RELIGION、DEAD KENNEDYS…その後RED HOT CHILI PEPPERSやJANE’S ADDICTIONなどにも携わってね。1991年にはLollapaloozaの初代ステージマネージャーをやってたよ。ロサンゼルス中のバンドと知り合いだったからでしょう、声がかかってね。それから今のプロダクション会社を始め、引き続きいろいろなライヴをブッキングしてるんだ。で、1995年にひと夏限りのことをやろうと思い立ってね。スケートボードのランプを音楽に持ち込もうというもので、それがWARPED TOURの始まりとなったんだ」

――自分でバンドはやってなかったんですか。
「いや、ミュージシャンとしてもスケートボーダーとしてもヘタだったんでね。だけど電話を通して相手をノらせ、その気にさせる話術はあったんだよ(笑)」

――長年かけてWARPED TOURはパンクロックの象徴とまでなったわけですけど、そもそもなぜパンクロックに限定したんです?
「パンクロックのフェスティバルとして始めたわけじゃなく、1995年当時は、ライヴハウスでプレイするあらゆるタイプのバンドのミックスだったんだ。よってSUBLIMEもいればNO DOUBTもいて…その辺はレゲエやサーフパンクで、NO USE FOR A NAME…これはもうパンクロック。グランジのL7にインディロックのSEAWEEDもいて。そんな感じだったけど、翌1996年にNOFXとPENNYWISEが出演して以降はパンクロックへとシフトしていくようになったんだ」

――じゃ最初はパンクロックにこだわってたわけじゃなかったと?
「そう、いろんな音楽の仕事をしてたからね。レゲエの仕事もしてたしで、だからWARPED TOURは常にさまざまな音楽の影響があるんだ。自分が本当に好きなのはパンクロックだけどね。メタルとパンクロックをミックスしてもいいだろうと思ってたし。キッズはみんな同じだから。特にスケボーの世界はそう。レゲエを聴いてるキッズもいればパンクロックを聴いているキッズも、メタルを聴いているキッズもいる。で、もしかしたらキッズをたくさん集めることができるんじゃないかと思ってね。そういうこともあり、常に多様なツアーであることを目指してたんだ。だからEMINEMやBLACK EYED PEASみたいなアーティストも出演する。最近じゃG-EAZYやアメリカで人気のBEBE REXHA(=ビービー・レクサ)などが出演してる。あとケイティ・ペリーも。彼女はパンクロックツアーに合うと思うんだ。自分のなかじゃ、彼女はほかのアーティストと同じくらいパンクロックさ。かつてレコード会社との契約に関して2、3回失敗してるしね。それでも彼女は自分を信じてやってきた。なかなかクールだよ。実際“キミはパンクロックの人たちとやってけるよ”と言ったこともあるしね(笑)」

――1ヵ所に限定することなく、フェスを全米各地巡演形式としたのは?
「自分があまり賢くなかったからかな。いや、違うか(笑)。大抵の人はフェスを週末にやることを考えるでしょう。それを全米各地を2ヵ月かけて廻る。単に音楽を人々に届けたいと思ってたからにほかならないから。自分は常々、若者たちにWARPED TOURにきてほしいと思ってた。その人たちは遠くにいくことができないかもしれない。大規模なフェスにいくには、東京でもそうだろうけど、キッズは遠くからこないといけない。だけど親にいかせてもらえない場合もある。WARPED TOURはいつも家の裏庭でやってるような感じでやってる。フェスをお客さんの方に持っていく。そして、アメリカじゃ連日日没時間までに終演させるようにしてる。アメリカじゃキッズが夜遅くにフェスにいるのを親は嫌がるからね。それがほかのフェスと違うところ。ともあれ、フェスをお客さんの方に持っていくことが大事なんだ。だから大都市だけじゃなく中小都市にもいく。この手の音楽はロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク…大都市で集客力があるけど、我々は中小都市のラスベガスやアイダホ州ボイジー、オレゴン州ポートランドといったところにもいく。そういう町にいくフェスはなかなかないからね。できるだけ多くの都市にフェスを持っていくようにしてるよ」

――全米各地を巡演するフェスと言えば、かつてのOzzfestもそうでした。開催第1回目、2回目のときは1ヵ所限定でしたけど、それでもスポンサー探しが大変だったと、かつてシャロン・オズボーンが言ってました。「第1回目にスポンサーとしてついたのはコンドームメーカーだけだった」と(笑)。それが全米各地巡演となった場合、相当の予算がかかるじゃないですか。WARPED TOURじゃそういう苦労はなかったんですか。
「コンドームメーカーってたぶんTrojanだね(笑)。確かに資金調達は大変なことだよ。長くやってるけど楽になるなんてないから。そういうこともあって、北米じゃ各地巡演が今年が最後になるんだ。あちこち廻るのは最後さ。WARPED TOURを始めて以降、費用も高くなったし、さまざまな規制もできて。移動費だけでもスゴい額になるし、人件費などもあいまって。巡演が今年最後となるのはとても残念だけど、今までの功績には誇りを持ってるよ。また、実は肉体的な理由もあるんだ。毎日現場に顔を出して働いてる。20都市以上もブッ通しで。2ヶ月も出ずっぱり。その肉体的負担はかなりのもので、身体が疲れてきてしまったんだ。今はほかの仕事もいろいろやってるけど、それでもWARPED TOURには毎日顔を出し、物事の中心にいて、その場で正しい、間違ってるなどの意思決定をすることが重要でね。そうすればどんな問題にも対処できる。…そう、そんなわけで今回が各地巡演は最後。39都市を回るよ」

――WARPED TOURは過去何回か観にいったことがあります。初めて観たときは強烈な印象を受けました。とにかくすべてが楽しい。いくつものステージに次から次へとバンドが出て、ランプじゃスケーターたちがたくさん滑走してる。間違いなくあの場にはパンクロックとアクションスポーツのクロスカルチャーがありました。そうしたカルチャーを生み出したいという想いってあったんですか?
「そういうカルチャーをずっと望んでたんだ。さっきも言ったけどWARPED TOURは“裏庭のパーティ”を想定してる。裏庭でバーベキューをやりつつバンドが演奏もし、スケボーをやる人もいる、みたいな。そういう場ってバンド、スタッフ限らずみんな知り合いになっていく。だからWARPED TOURの現場じゃ全員が平等に扱われる。WARPED TOURはバンドがチャンスを得る場だけど、アパレル会社やスポーツメーカーも規模を大きくしていったね。HURLEY、VOLCOM、そしてなによりもVANSね。どれもWARPED TOURが大きな起爆剤になった結果だと思ってるよ。実はCoachellaをはじめアメリカでやってるフェスの各部門の責任者の大半はWARPED TOUR出身なんだよ。人材をあちこちに送り出すことができた、という面でも誇りに思うよ、教育者として。自分は教育するのが好きなんで…今年のWARPED TOURを終えた後、南カリフォルニア大学(USC)の教授として教鞭をとることが決まってるんだ。起業家精神とミュージックビジネスを教える。自分には新たなチャレンジになると思うんだ」

――過去、WARPED TOURは日本で3度実現してます。今回で4度目。1度目から2度目、2度目から3度目、そして3度目から今回の4度目の間には何年も空いてしまいます。こういうカルチャーが日本に根づきにくいんだなあというのを実感してます。
「確かに理解されるのに時間がかかり、骨も折れたこともあったよ。だけどYouTubeの普及があり、かつクリエイティブマンからのアプローチもあり、そろそろ日本に戻ってくるべきときがきたと思ったんだよね。今回は出演バンドのライヴも、観客動員面でも上出来だと思ってる。久方ぶりにやったにしてはね。願わくはみんながまたやりたいという気になってくれるといいんだけどね」

――WARPED TOUR云々には関係なく、これまでにたくさんの日本のアーティストたちと仕事をしてきてますよね。
「そう、日本のアーティストをたくさんアメリカに連れていくことができたよ。MUCCやCrossfaith、coldrainとかね。みな以前WARPED TOURに出たことがあるんだ。あとTaste of Chaos Tourも。その頃はJ-ROCKの仕事をしてたんでYOSHIKIとも組んでたし。彼とはアメリカでJ-Rock Revolutionをやったんだ。それから自分自身のレーベルからDIR EN GREYの作品もリリースしてね。彼らをアメリカに呼んで、ロサンゼルスとニューヨークでライヴをブッキングし、SXSWにも出演してもらってね。その際プロデューサーたちとの電話会議があったのを憶えてるよ。夜のとても遅い時間だったんだけど、“このバンドの作品をどうしてもアメリカで出したい”と言ったんだ。で、彼らがSXSW出る日の朝、ライヴ会場前の通りには文字通り長蛇の列ができてた。夜10時に出るのにそんなに早くから。そんな感じで、とても楽しい経験ができた、日本のアーティストたちとは。それからしばらくの間、ORESKABANDの作品をアメリカで出そうとしてたよ。彼女たちはWARPED TOURにも出てもらったよ。日本とアメリカの間にはカルチャーの違いがあり、ときにはいろいろ大変なこともあるけど、決して悪いことじゃない。ビジネス的に難しいこともたまにはあるよ。ORESKABANDはLESS THAN JAKEとUSツアーする予定だったけど、背景に多くのスレ違いが生じ結局はツアーはキャンセルになってしまったんだよね。日本サイドとのコミュニケーション面での難しさを痛感させられたね。ある部分仕方がないことだったけど。だけど今現在は前より日本とアメリカの間のコミュニケーションはずっと円滑になってる。願わくは我々アメリカ側が少しでも日本のアーティストたちのアメリカ進出に貢献できてるといいんだけどね」

――長年プロモーターをやられてて、いくつもの日本のアーティストとも仕事をしてきたアナタから見て、日本のアーティストのアメリカでのさらなる可能性はあると思いますか?
「今はレコード会社もより協力的になってはいるけど、もっとアーティストたちに対してグローバルな戦略を考える必要があると思うんだ。たとえばONE OK ROCKのようなバンドは、次のレベルにいくにはどうすればいいかを考えてる。だけど次のレベルにいく、っていうのがまた大変でね。聞いた話だと、日本じゃバンドのいち公演のチケット売り上げ2,000枚に行き着くのが大変らしいね。今はアメリカでも同じ問題がある。次のレベルへとブレイクスルーするにはどうすればいいか。アメリカじゃ多くのバンドのチケットの売り上げがいち公演600~800枚くらい。だけどそれをどうやって2,000~3,000枚に持っていくか。それにはヒット曲が必要なときもある。みんなこの新しい音楽市場のなかで大苦戦しながらその答えを見つけようとしてる。ひとつのバンドがどうやって次のレベルに押し上がっていくか…」

――やっぱ“言語の違い”も障害になるんですかね。
「確かにかつては障壁になってたね。多くのうまくいったバンドはバイリンガルだったから。英語と日本語で歌って。だけど日本語で歌うJ-Rockは大丈夫でした。従来のロック市場じゃ英語で歌った方が認知されやすいと思うけど。だけどJ-Rockの場合は、日本語で歌うことを人々が受け容れてたから」

――最後にWARPED TOURには毎回相当数のバンドが出るじゃないですか。アナタを中心としたスタッフ何人かで出演組を決めてるんですよね?
「イヤ、全部自分がひとりで選んでるよ。だいたい60組ぐらい」

――ぇ? マジですか?
「ホントだよ(笑)。ずっとやってきたことだし、今じゃそれが当然、普通のことになってるよ」




文・有島博志
通訳・安江幸子
写真・垂水佳奈